こういう風に二人で執筆するというのは、なかなかうまいやり方だなあとあらためて実感してます。
一人の執筆だと自分の中の孤独な戦いになり、締め切りという恐怖に追い立てられる状況を作ることで無理矢理自分をドライブするしかありませんが、二人での執筆には自然発生的にリズムが生まれて「このタイミングでこちらが書かないとね」という気持ちになります。「ヒューマン・イヤー」のテンポでね。
ペアという「最小のチーム」の力学を活用することは、ソフトウェアの開発にも有効な人類の知恵のひとつになろうとしています。この「ペアプログラミング」の概念と実践についての話は檜山に譲ることにして、僕は、自分の経験から「二人の共同作業」のよい面と難しさについて語りたいと思います。
いまサルサに熱中しています。週に2回のペースでレッスンを受けてます。基本の動きには慣れ、ラテン音楽のそれぞれの楽器の音が音楽として体に入ってくるようになりました。 ところが問題はペアダンスです。一人でなら音楽を聴きながら楽しくステップを踏めるのですが、サルサクラブで実際に女性と抱き合ってのペアダンスになるとどうもうまくありません。女性の手を取ったととたんに「僕なんかと踊っても、この人はつまらないんじゃないか」といった変な恐怖心に捕らわれてしまうのです。
人間にはいろんな欲望があります。 性欲や食欲のような生き物としての欲望だけじゃなくて、支配欲とか相手より優位に立ちたいとか勝ちたいとか良く見られたいとかそういう類の欲望もあります。 学生たちと関わるようになって強く感じるのは、若い人の生き物らしい真っ直ぐな欲望に比べて、自分は年を取るにつれておかしな欲望が強くなっているなということです。 そして、そういうおかしな欲望の裏返しとしてこういう恐怖心があります。 僕がサルサに熱中している理由のひとつは、そんなしょーもない恐怖心に捕らわれている情けないみじめな自分から自由になりたいということがあります。 女の子と抱き合って、素直に、一緒に楽しく音楽を体で感じれるようになれるまでくじけずにがんばります。
サルサの面白いところの一つは、自分が生身の体を持っている生き物として相手と関わることです。 相手の手を握り、体を抱きしめるという行為は、それだけでも精神を癒す不思議な力があります。人との関わりの基本は生身の体の接触なんだとという単純な事実を思い知らされます。 結局、生き物としての自分を大切にしなければ、コミュニケーションや共同作業はうまくできないのです。
説教くさくなりました。反省。 ソフトウェア開発や仕事の進め方の話に戻すと、言いたいことは、ちゃんとペアで共同作業ができるようなまともなコミュニケーションの能力を各メンバーが持つためには、変な恐怖心から自由であることが重要で、そのためには各自が自分を大切に扱えるような場の雰囲気や環境が必要だということです。 労働時間がどうとか、作業場所とか、精神衛生に気をつけましょうとか、そういう管理のはなしはこういうことから派生して出てくるものだと思います。
見栄や劣等感などの恐怖心に強く捕らわれている人は、どんな人とペアを作ってもうまく共同作業をすることは難しいです。 しかし、遠慮や虚勢と全く無縁な人はほとんどいません。ペアを作って作業をすることって、実際にやろうとするとけっこう勇気のいることなんですね。
サルサの音楽を聴いているうちに音楽が体に入ってくる体験をしました。そして、音楽が物理的な音波ではないということに気づいてかなりびっくりしました。
物理的な音波は瞬間ごとに消えていきますが、そういう音の並びを一つの音楽として理解するのは、人間の認知能力とハートです。 黄金比からなるペンタトニック音階を使うと、任意の音の並びが音楽と感じられます。そしてその理由は、人間の聴覚器官がカタツムリ形の黄金比でできていることに還元できるそうです。つまり音楽というものは、人間のハードウェア(聴覚器官の物理的な構造)や認知能力の中にしか存在しないのです。
僕にはクラシック音楽の曲名になぜ音階名がついている理由がずっと分からなかったのですが、音楽を作曲するという作業の本質は、沢山の音の中から自分の音階を選ぶという作業なんですね。 この「音階を選ぶ」ということは、檜山と僕がこの連載で同じ日本語でありながら微妙に違う言語を使っていることに対応すると思います。 僕たちも創造的な仕事をするときは、作曲家と同じように一人一人個性を持った「音階」つまり言語や世界観を選択し、その上で創作をすることになります。
ぜんぜん違った「音階」を持った二人が共同作業をすることを「バッド・チューニング」と呼ぶことにしましょう。 この言葉を、もっと一般的に使われる「ミス・マッチ」よりもポジティブな意味で使いたいと思います。 このエッセイの連載のように「文体が不統一」「用語法がばらばらだ」「対象読者も違っている」というのは編集者から見ると言語道断なのかもしれませんが、でも僕たち著者も書籍を生産する機械ではなくて、ひとりひとり個性を持った生き物なのでバッド・チューニングはしかたがありません。
こういう管理が、「工業製品」を指向したソフトウェア開発には適さないだろうということはじゅうじゅうわかってます。 でも、ここで検討しようとしているのは、「創作活動」としてソフトウェア開発のありかたです。方法論としてオールマイティというものは無くて、適材適所ということでしょう。 「本物」を指向する創作活動としてのソフトウェア開発のマネジメントには、バッド・チューニングを許容しつつプロジェクトをきちんと推進できなければなりません。 プロジェクトのリーダにも知恵と勇気が必要です。